古事記には大穴牟遅神(大国主命)が気多之前で白兎を助けたとありますが、白兎海岸の西に突き出ている岬の名前がこの気多之前であり、その岬の二百五十メートル沖には淤岐の島があります。(思っていたより、島が近くにあって驚きました)
この因幡の白兎の「神話の起源」について、「蹟神 白兎の宮」(白兎神社の宮司さんからいただいた冊子です)に興味深い考察がありましたので、紹介させていただきます。
白兎というのは実は野に住む兎でなく、神話時代にこの地方を治め信望の高かった一族の事を言ったもので、白兎と呼ばれたのは兎の如くおだやかであったからだと言われているそうです。
白兎一族は航海を業としており、日本海沿岸をおびやかしていた[わに]と呼ばれていた賊(海賊?)と淤岐の島の付近で戦ったのです。
最後の一戦で負傷して苦しんでいる白兎の一族が大穴牟遅命(大国主命)に助けられ、後に大穴牟遅命と協力して[わに]を討伐してこの地を治め、大穴牟遅命には八上比売を嫁とらせたという話のようです。
そのこともあって、縁故の深い此の山に宮居を定め、後世までも白兎神として崇敬されるようになったようです。
神話の起源について、ちょっと古いですが同様な記事を紹介します。[大正9年11月発行鳥取新報記事]
この付近を領していた白兎神は、和邇の大軍と淤岐之島で戦った。
和邇と云うのは日本海を荒らして居る乱暴な船乗り共であった。
古事記には此の戦いの有様を面白く書いて居る。
和邇の大軍が押し寄せた模様を[頭を並べて]と記し火花を散らして白兎の神々が、この和邇と戦う姿を、[和邇の頭を数えつ、飛んだ]と書いて居る。
白兎神は淤岐之島から気多之前まで押し寄せて来る和邇の大軍を物ともせず戦ったが、最後の和邇の為に打ち破られ血に塗れて倒れた。
これを見ると和邇軍は、勝鬨を挙げて引き揚げたのである。
古事記にはこの様を[最後の和邇、我を捕えて我が衣を剥げり]と書いて居る。
勇敢な白兎の神様も、虫の息となりて打ち倒れていたのであろう。
初めて白兎神社にお参りに行ったのが平成26年の1月です。
以後、コロナ禍になる前の令和元年まで毎年お参りに行っていました。
羽田から飛行機で鳥取空港(コナン空港)まで行き、タクシーで白兎神社へ。
お参り後、JRに乗り換えて出雲市へというのがお決まりのコースです。
白兎神社までの交通機関は路線バスが中心になるのですが、本数も少なくいつもタクシー移動です。
白兎神社は思っていたより小規模な神社でしたが、とっても歴史を感じる神社です。(なんか、可愛いと思いました。)
地元の人の話によると、12年に1回の「うさぎ」年は、参拝に来る人がたいへん多いそうです。
いつ行っても、白兎神社のお参りはいい天気に恵まれます。
初めてのお参りこそ曇り空でしたが、その後は気持ちいいくらい快晴です。
しかし、不思議な事に翌日の出雲は、雨が1回、曇りが5回とこちらは天候に恵まれていません。
◆白兎神社(鳥取県鳥取市白兎)
御祭神 白兎神 保食神 豊玉姫命
本殿を支える土台石に菊の紋章が彫刻(二十八弁)してある。全国的にも珍しく、神社創設が皇室と何らかの関係があったものと言われています。